セミミノルタIIIAと戦後関西のカメラ産業


一時は隆盛を誇った日本の家電製品は今や中国にシェアを奪われ、自動車も高級ブランドに強いドイツ、スポーツカーで鳴らすイタリアに加え、物量面では中国の伸長も著しい。そんな中でカメラは、日本が今も物量とブランドイメージをともにほぼ独占している稀有な分野であり、ライカのようなニッチな商品を除くと、日本以外には目立つブランドさえない状況である。実際の製造は海外移転されているものも多いが、国内にも多くの製造拠点があり、特に九州や東北に多くの光学産業が分布している[1]。1960年頃から日本のカメラは高機能化と価格競争力でドイツを凌駕するようになり、その後、60年以上の長きにわたってトップを独走しているのは誇るべきことだと思う。

そのような中で関西は、ミノルタのカメラ事業終了(コニカと合併した後、カメラ事業をソニーに継承して撤退)により、現在、光学産業の規模は大きいとは言えない(*1)。しかし、現在に至るカメラ産業の立ち上げ期にあたる、戦後すぐの時代には、関西、なかでも兵庫の存在感が高い時代があった。ここでは、兵庫の名山「六甲山」に由来するブランドを2つ兼ね備え、機能的にも当時先端を走っていた、終戦翌年(1946年)発売の「セミミノルタIIIA」を紹介する。

解説動画

セミミノルタIIIAの特徴

セミミノルタIIIAは、戦後最初にミノルタが製造販売したカメラであり、その特徴として以下の点が挙げられる。 これらのうち特に、前2者の自動巻止めと二重露出防止を兼ね備えたセミ判(645判)カメラである、という点が、後のカメラと比較してなお、このカメラの傑出した点である。多くのセミ判カメラはフィルム巻き上げが赤窓式で、自動巻止めが備わっている機種(パールIIIなど)でも、その巻止め機構がシャッターボタンと連動していないため、撮影せずに次のコマへ送ってしまうという無駄が生じることがある。一方、二重露出防止機構がついたカメラ(セミイコンタなど)では逆に自動巻止めが備わっていないものが多い。


これら両者が備わっているセミ判のスプリングカメラは、このミノルタIIIA(と後継機種のIIIB)を除くと、パールIVと、ずっとあとの時代のフジカGS645 Professionalぐらいしか存在せず、これらはいずれも700g以上と重くなる(ミノルタIIIAは約500g)。

上の動画はセミミノルタIIIAの自動巻止め・二重露光防止機構の動作の様子である。背後のレバーを押すとカウンターのギアが外れ、1にリセットされる。フィルム装填時には赤窓で1を出し、カウンターをリセットするという手順となる。シャッターを切るとカメラ前方の横長のバーが右へ動き、巻き上げノブのロックを解除するとともに、左端のレバーがシャッターボタンの下へ潜り込み、シャッターボタンを押せなくする(二重露光防止)。巻き上げるとカウンターが進み、1コマ進んだところで再び巻き上げにロックが掛かる(これを制御するカムはカウンター板の下にあり見えない)。またカメラ前方のバーが左へ動くことで二重露光防止が解除され、シャッターが切れるようになる。この繰り返しで、巻き上げと撮影を順に繰り返していくことができる。

レンズは、戦前からの歴史を持つミノルタが初めて自社製造したものである。単に自社で研磨組み立てしたというものではなく、ガラスは戦時中に海軍の指示で光学ガラス専用に建設した伊丹工場で溶解されたもの[2]で、設計も1941年にミノルタに入社した名設計者、斎藤利衛によるものである。また、国内で一般に市販されたレンズとしては最初にコーティングされたレンズと言われており、これには前述の伊丹工場建設時にレンズ溶解技術をミノルタに提供した大阪工業試験所の技術が移転されたものと思われる[2]。

シャッターはコーナンラピッドで、当時の最高級品、コンパーラピッドと同じく1秒から1/500秒までの範囲が使用できるものである。国産品としては、戦前から精工舎(セイコー)が各種シャッターを製造販売しており、1941年ごろにはセイコーシャ・ラピッドの試作にまでこぎつけていたが[4]戦争により販売には至らず、量産は1946年6月からという。それではなぜ、この時期にこのような国産シャッターが存在するのかについては十分な情報がないが、いずれにしても当時最高の性能を誇るシャッターであったことは間違いない。

その他の部分は多くの標準的なセミ判スプリングカメラに準じるが、ボディは板金でなく堅牢なダイキャスト製で、ピント合わせは前玉回転式ではあるが最短撮影距離は0.8mである。写真のIIIAはシャッターボタンにレリーズケーブルを装着することができる後期型(No.17481)である。レンズおよびシャッターは不調であったため、ボディNo.5993の別個体に付属していたものと交換していることに注意されたい。

後継機種のIIIBではシャッターにシンクロ端子が備わるが、本体の機能には変更がない。しかしIIICでは二重露出防止機構が廃止され、巻き上げ前にはカメラ前面に新たに設けられたロック解除ボタンを押さなければならなくなった。さらにミノルタセミPでは、巻止め機構が廃止され赤窓式に戻ってしまう。またレンズが旭光学製のトリプレットレンズに、またシャッターが1/2〜1/200秒のコーナンフリッカーにランクダウンされ、非常に単純なカメラとなった。これが、ミノルタ(千代田光学)製のセミ判スプリングカメラの最終機となった。

六甲山にちなむブランド名

レンズ名のROKKORの名称は、ミノルタ創業地である兵庫県西宮市から近い六甲山にちなむ(その後、ミノルタは大阪に本社を置いたため、レンズ銘板にはOsakaと記載されている)。前述のように一般に市販されたレンズとしてはこのレンズが初めてコーティングが施されたレンズであるが、世界で初めてマルチコーティングが施されたのもロッコールである。しかしこのブランド名は1981年に使用されなくなった。

シャッター名のKONAN RAPID(コーナン・ラピッド)については十分な一次資料がないものの、西宮市の甲南カメラ研究所(現:コーナンメディカル)に関連すると言われ、甲南カメラ研究所は後にミノルタ16シリーズへと発展したコーナン16オートマットの開発など、ミノルタとの密な協力関係があった。もちろん甲南の甲は六甲山を意味する。

なおレンズやシャッターに記載されているChiyokoは千代田光学精工のことであり、後に社名となるミノルタは、この段階ではまだカメラ名である。多くのカメラメーカが同様に、カメラ名を後に社名としている(ニコン、キヤノン、ペンタックス、オリンパス、コニカ等)。


当時の千代田精工発行の小冊子より

撮影例

このころのカメラは極端な物資不足のもと戦後すぐに製造されており、材料の問題などから不調を抱えているものは少なくない。今回、ジャンク状態の複数のIIIAを入手し、それらから1台のほぼ完調なカメラを仕上げて撮影した。使用した定着液に銀が析出していたために白い斑点が多数見られるが、もちろんこれはカメラの問題ではない。


F5.6前後で撮影した例である。合焦部のシャープさや、周辺部までの画質の安定感もさることながら、背景のなだらかなぼけが滑らかで美しい。


これもF4からF5.6の間で撮影したものである。周辺光量も豊富で、十分にシャープでありながら自然な柔らかさのある描写である。

関西のレンズ産業

ミノルタと大阪工業試験所による光学ガラスの製造

ミノルタ(千代田光学精工)創業者の田嶋一雄は貿易商の経験を通して光学機器に興味を持ち、1928年頃からカメラの開発製造に着手する。戦前は海外製品を参考に改良を加えたカメラを多く開発製造し、なかでも連動距離計を持つオートセミミノルタや、自動巻止め・セルフコッキング機構を持つ二眼レフカメラのミノルタフレックスオートマットなど、高機能なカメラも得意としたが、レンズは製造せず、他社製を用いていた。しかし戦争が激化し、ミノルタは軍需会社の指定を受ける。当時、日本光学(現:ニコン)をはじめとする多くの光学産業が首都圏に集中しており空襲のおそれがあったことから、光学ガラスの製造拠点を関西に分散すべきとの判断があり、海軍の通達により兵庫県伊丹市に光学ガラス溶解工場を建設し、1943年6月に火入れ式があった[5]。

関西圏ではそれに先立ち、大阪工業試験所が光学ガラスおよびコーティングに関する研究開発を進めていた。1921年にその後のレンズ開発のキーパーソンとなる高松亭を迎え、材料を溶かすルツボの改良を進め、1935年にはテッサー型レンズの製造に必要な4種全部のガラスの国産化に成功した[2]。前述のミノルタの伊丹工場の立ち上げには、池田市にあった大阪工業試験所から近いこともあって全面的に協力し、急速な成果を上げた。また、大阪工業試験所ではレンズコーティングの開発も進められており(潜水艦の潜望鏡はレンズ枚数が多いため、当時は増透処理と言われるコーティングの開発が急務であった)、終戦時には実用に供せるものができていたという[5]。

ミノルタにおけるレンズ設計も戦時中に開始される。斎藤利衛は日本光学でレンズ設計を学んだ後、田嶋一雄に請われて1941年にミノルタに入社、その後レンズ設計を率いた。斎藤利衛については語学に堪能であるほか、その仙人のような生き様や、戦時中から同期の東條英機を公然と批判するなど、数々の伝説が残っている。

神尾氏によると、大阪工業試験所の隣にあった元陸軍造兵廠池田工場長の工藤哲夫氏が、戦後、ミノルタに招かれて伊丹工場長になったということである。1947年に神尾氏が伊丹工場を訪れたとき、工藤氏は、昨年(1946年)にはミノルタセミIIIAのテッサー型レンズについて、レンズ設計、ガラスの溶融、レンズ研磨、組み立てまでの一貫工程すべてを始めて自社で行った、と説明したことが述べられている[5]。このように、ミノルタのレンズの製造は、大阪工業試験所との関係があってのことであった。伊丹工場は空襲を免れたために戦後、レンズの製造再開をいち早く行うことができた一方、日本光学はガラス溶解の成功が遅れて在庫不足に陥り、キヤノンへのレンズ供給などが滞ったことが知られている。日本光学の戦後のレンズ製造再開は1945年12月と言われているが、これは戦前・戦中からのガラス在庫で製造したものであり、ニコン自身のガラス溶解炉の稼働は1947年8月であった[6]。

その後、伊丹工場はミノルタの光学ガラス製造を支えたが、さる2021年に閉鎖された。

甲南カメラ研究所と西村雅貫

甲南カメラ研究所についても触れたい。甲南カメラ研究所は甲南大学(旧制甲南高校)の写真部OBが集まって発足した会社とされるが、創業者であり、研究所を率いた西村雅貫は京都大学写真部OBであり、のちに述べるハナヤ勘兵衛も同志社大学を中退したようだ。西村雅貫は神戸の高級旅館、西村旅館の長男で、中学時代、写真に興味を示すと、父親がカメラ店の全品を買い占め、分解・研究したという逸話がある。さらに学生時代には小型カメラの研究・製作に熱中するあまりスパイ容疑がかかるも、その技術と性能から参謀本部にスカウトされ陸軍の依頼によりスパイカメラの研究を行っていたとされる。

また同じく兵庫には桑田商会なる写真材料商を芦屋で営んでいた写真家、ハナヤ勘兵衛(現在も芦屋に「ハナヤ勘兵衛」というカメラ店がある)が新興写真分野で活躍しており、前述の西村雅貫とともに甲南カメラ研究所を設立する。甲南カメラ研究所は、その社名を冠したコーナン16オートマットの量産をミノルタに依頼し発売。その後ミノルタ16シリーズとして改良が続けられた。

甲南カメラ研究所は富士フイルムとの関係も深く、入門向けカメラとして多く販売されたフジペットの開発を行ったほか、同じ体制で美しいハーフ判カメラ、フジカミニの開発も行った。さらに、のちの「写ルンです」に繋がるレンズ付きフィルムの開発も甲南カメラ研究所の功績である。甲南カメラ研究所は使い捨てカメラ、フィメラ(fimera)やECHOなどを試作して富士フイルムに持ち込み、レンズ付きフィルムの素地を作ったと言われる。

コーナン・ラピッド及びコーナン・フリッカー等のシャッター技術がどのような経緯でもたらされたのか、どの工場で製造されたのか、などについては資料が乏しく不明であるが、前述の経緯からすると、これも戦時中に軍需品として研究開発が進められていたものが、戦後、民需転換されたものではないかと考えられる。

甲南カメラ研究所はその後、医療機器を中心に開発、製造販売する株式会社コーナン・メディカルとして引き続き兵庫県西宮市で活動している。

脚注

参考文献